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一青窈「ハナミズキ」は911の歌ではなかった



以下はブログ「金田一耕助の解」さんからの転載です。
911アメリカ同時多発テロを歌ったとされる一青窈「ハナミズキ」についての名解釈です。
元のブログは
10年前のもので、すでに削除されていますので保存用です。


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金田一耕助の解


この詩の意味を解くためには、まず登場人物を特定しなくてはならない。方程式でいうなら、xやyである。


 一見すると当然、『僕』(男性あるいは男の子)と『君』『君の好きな人』の三人である。『君』は『薄紅色で可愛い』からやはり若い女性か女の子だろう。そして、一青窈は自分とは異なる『僕』の代わりにこの歌を歌っていることになるだろう。


 『僕』は『我慢』し『君と好きな人が 百年続きますように』と願っているから、『僕』は片想いの『君』から身を引いて彼女の幸せを願っているということか。


 しかしそう考えるとおかしな部分が出てくる。


 最後のほうに『母の日になれば、…贈ってください』と出てくる。


この言葉は当然、母親が自分の子供に述べる言葉である。


改めて視点を変えて全体を見てみると確かにこれは母親の、成人して好きな人が出来、親離れしてゆく子供に対するメッセージだと見えてこないこともない。


 しかし、母親が自分のことを『僕』と言うのはちょっと不自然である。また意味不明の歌詞が多く残ってしまう。


 『薄紅色の可愛い君』というのは女の子のほか、幼い子供や赤ちゃんも思い浮かべさせる表現である。歌っているのが母親とすれば、赤ちゃんをイメージしている可能性は高い。


 では、何らかの理由で、赤ちゃんと離ればなれに生きてゆかざるを得なくなった母親から愛子へのメッセージか。


そう受け取れる部分もあるにはある。しかしやはり『僕』という表現が気になるし、意味不明の歌詞は依然として意味不明のままである。


その意味不明の歌詞の一つに『水際まで来てほしい』というのがある。



 これはいったいどういうことだろう。水際の手前にいるのは誰で、向こうにいるのは誰だろう。どちら側から呼んでいるのだろう。水際の向こう、つまり水の中にいるということは、その人は死んでいるということか。


 では母親はすでに亡くなっているのか。


 水の事故で亡くなったか、入水自殺した母親が天国かどこかから子供の幸せを祈ってメッセージを送っているのか。


 そう考えると『水際』の疑問は解決するかもしれない。だがその視点のまま解釈を進めていっても釈然としない言葉が数多く残る。


例えば『果てない夢がちゃんと終わりますように』という言葉。


 夢とは「叶う」よう願うものではないか。終わるよう願うということは、果たされずにということだ。ということは、その夢とは次に出てくる『君と好きな人が百年続く』ということではないことになる。


 また、『ミズキの葉、贈ってください』というのも変ではないか。
母の日に花束を贈ることはあってもただの葉っぱを贈るなんていうことは普通ない。


逆に子供のほうがすでに死んでしまっているとすればどうか。


 そうすると『君と好きな人が百年続く』はずはない。


 ここで推理は行き詰まってしまう。


 しかし、もはや選択肢はそう多くない。


そのことにはとりあえず目をつぶって、この視点でもう一度全体を見てみよう。


 子供はなぜ死んでしまったのだろう…そんなことを考えながら歌詞を追ってみると思い当たる言葉が目に入ってくる。


 『一緒に渡るにはきっと船が沈んじゃう どうぞゆきなさい お先にゆきなさい』


 この歌詞は、一緒に生きてゆくことができないと判断した母親が妊娠を中絶したことを述べているように聞こえないだろうか…。


母親がおなかの中の赤ちゃんに語りかけている。


 この視点は新鮮だ。その可能性を歌詞の始まりから検証してみる。


 『空を押し上げて 手を伸ばす君 五月のこと』


 なるほど、これは母親が『五月』に妊娠した(あるいは妊娠の事実が判明した)ことをよく表現している。


 ここでそれは、ちょうど土の中で発芽した植物の種が、地面とその上の『空を押し上げ』、芽を外の世界へと伸ばし始めた様子に例えられている。その姿は小さな子供が空に向かって『手を伸ばし』ているかのように見える。


 『どうか来てほしい 水際まで来てほしい』


 これは母親の願いである。


水の中とは母親のおなかの羊水の中であったのだ。


 それは死後の世界ではないかとの推測からこの解釈を進めてきたのだが、この結論に至ったのは怪我の功名だ。少なくともこの時点では母親は赤ちゃんに『水際まで来てほしい』すなわち、外の世界に生まれて来てほしいと願っていた。


『つぼみをあげよう 庭のハナミズキ』


 『つぼみ』とは将来の可能性のことだ。『庭のハナミズキ』を眺めながら、生まれてきた赤ちゃんに母親はすばらしい将来をあげたいと思っていたのだ。


ここまで驚くほどぴったりの解釈ができた。


 続いてサビの部分が始まる。しかしサビというのは後でまた何度か繰り返されるもので、最後にその意味がわかるというパターンが多い。


 先に二番の歌詞のほうから考えてみよう。


 『夏は暑すぎて 僕から気持ちは重すぎて』


 やはりどう考えても母親が自分を『僕』と呼ぶのはおかしい。


しかし、『僕』と呼ぶ人物は確かに存在する。それは自分の赤ちゃんである。


 「僕」「僕ちゃん」といった具合だ。『夏』すなわち八月、妊娠(あるいは妊娠が判明してから)三ヶ月目、猛『暑』のような試練が生じ、母親は産まれてきたいという『僕から』の『気持ち』を受け止めるのは荷が『重すぎる』と感じるようになる。


 『一緒に渡るには きっと船が沈んじゃう どうぞゆきなさい お先にゆきなさい』


 もはや赤ちゃんを産み、『一緒に』世間の荒波を『渡って』ゆくことはできないと判断した母親は辛い決断をする。赤ちゃんを自分より『先に逝かせる』という決断を。


次に二度目のサビに入る。最初のサビとは歌詞が異なるが、ここもとばして三番の歌詞を見てゆく。


 『ひらり蝶々を 追いかけて白い帆を揚げて』


 『蝶々』は天使の羽をイメージさせる。それを『追いかけ』、旅立って行く先は天国である。


『母の日になれば ミズキの葉、贈ってください』


 葉を贈るというのは変だと感じていたが、これで意味がわかる。


 すなわち、五月の『母の日』の頃、『ミズキの葉』が芽吹くとき母はそれを天国の子供からの『贈り物』と見なし、思い出すということだ。
何ともぴったり当てはまるではないか。これですべての謎は解けた…のだろうか。


 いや、最後のこの歌詞が残っている。


 『待たなくてもいいよ 知らなくてもいいよ』


 これまでの解釈がすべてであるとすると、残念ながらどうしてもこの言葉の意味が理解できない。


 天国にいる赤ちゃんに、「待っててね、お母さんもじきに行くから」ならともかく、待たなくていいとはどういうことか。


 死んだ子供に「自分はもっと長生きするから待ってなくていいよ」というのはあまりに酷い。


 何を知らなくていいと言っているのか。


 「わたしがあなたを殺したという事実なんか知らなくていいよ」というのもこれまた酷すぎる。


 方程式の問題において、90%の正解などありえない。0か100かである。この部分が解明されなければこれまでのすべての解釈は無意味だ。


しかし、ここでこれまでのアイデアすべてを放棄してしまうにはあまりに当てはまりすぎていた。とりあえずここは先に進み、保留してあったサビの部分の解明に取りかかりたい。


 『薄紅色の可愛い君のね 果てない夢がちゃんと 終わりますように』


 『夢』が『終わるように』という表現にも引っかかっていたが、これまでの解釈でいくとそれも説明できる。


 おなかの中の赤ちゃんの見ていた『果てない夢』とは、もし生まれてきていたならば追い求めることが出来たであろうすべての夢だ。それが『ちゃんと終わって』ほしいと中絶をした母親が願うのは当然だ。


『つぼみをあげよう 庭のハナミズキ』


 『つぼみ』とは将来の可能性のことだ。『庭のハナミズキ』を眺めながら、生まれてきた赤ちゃんに母親はすばらしい将来をあげたいと思っていたのだ。


ここまで驚くほどぴったりの解釈ができた。


 だが、ここで再び壁に突きあたってしまう。 


 『君と好きな人が百年続きますように』


死んでしまった赤ちゃんと、赤ちゃんが『好きな人』(考え得る唯一の人は母親)が『百年続く』ことなどあり得ない。


 それにそれは妊娠中絶を決断し、実行した母親の願いであるはずはない。


 やはりこの視点では無理なのか…。


 いや、ここで諦めるわけには行かない。なんとかここを打破する道はないだろうか。


 もう一度、サビの部分に全神経を集中して見てみたい。


『薄紅色の可愛い君のね 果てない夢がちゃんと終わりますように』


『君と好きな人が 百年続きますように』


 ん?…母親は『君』の『果てない夢』が果たされずに『終わる』ことを願い、同時に『君』と『好きな人』が『百年』『続く』ことを願っている…。


 無限のものが終わり、有限のものが続くように…この完全に対照的な願いは何らかの意図を感じさせないだろうか。


実はここにこの歌の謎を解く重要な"鍵"が仕組まれているのである。


 ここから先を解き明かすにはこの鍵を使用し、コロンブスの卵的な発想の転換をしなければならない。


確かにこの二つの願いは正反対の方を向いており、同一人物に対するものであるとすれば矛盾している。


 しかしもし、もし仮に二人の異なった人物に対する別々のメッセージだとすればどうだろう。そう、連立方程式のように…。


 つまり、初めの『君』と後の『君』が別人であるという可能性はないだろうか。


 でもそうだとすると新たな疑問が生じてくる。母親の子ではない別の『君』とはいったい誰か、そしてその『君の好きな人』とはいったい誰かという疑問である。


 どうかよく考えてみてほしい。この歌にある人物が出てこないのはおかしいとは思わないだろうか。


 そう、それはこの赤ちゃんの父親だ。


さらに、もう一つ考えなければならない重要なことがある。当初は生みたいと思っていた母親がなぜ中絶を決断しなければならなくなったのか、その理由である。


 二番のサビの部分にその答えがある。



 『僕の我慢がいつか実を結び』


 『僕』は生まれてきたいという願いを『我慢』した。それはどんな『結果』を期待してのことか。
『果てない波がちゃんと止まりますように』


 母親が中絶することによって『波が止まる』ような状況とはいったいどのようなものだろう…。


 そう…


 唯一考えられるのは…不倫だ。


 すなわち、この母親はそれによって不倫相手とその妻との『果てなく』続くかに思われたどろどろの三角関係に終止符を打ちたいと思ったのである。


 そう考えれば何の疑問もなくこの歌詞の意味が理解できるようになる。


 『君と好きな人が 百年続きますように』


 ここで語りかけている『君』とは不倫相手のことであり、『君の好きな人』とはその妻(あるいはその本妻の子かもしれない)である。


 母親は自ら身を引くことにより、不倫相手とその妻との間の『波』風が収まって、その関係が『百年』すなわち末永く『続いて』ゆくことを願ったのだ。(「永遠に」でないところはやはり女心か)


 これであの最後の言葉の謎も解くことができる。


 『待たなくてもいいよ 知らなくてもいいよ』


 これは天国の赤ちゃんに対するものではなく、不倫相手に対するメッセージだったのだ。つまり、


「私はもうあなたのもとには戻らないから、待たなくてもいいよ」


「私が赤ちゃんを堕ろしたことなんて、知らなくてもいいよ」


 というわけだ。


 彼女は妊娠の事実を不倫相手には教えることなく、中絶し、別れることを自ら申し出た…。


 これが私の導き出したこの歌の謎の解である。


どうかこれらの解釈を当てはめ、もう一度最初からすべての歌詞を追ってみてほしい。


 すべての言葉が、すべての言い回しや表現が、そのあるべき場所にぴったりと、完璧に収まっていないだろうか。


 完成された方程式の解のように…。


 当然、この母親は一青窈本人であろう。


 彼女は生涯決して不倫相手に妊娠の事実は告げるまいと決意したものの、それでもやはり知ってほしいという想いを捨てきれず、この歌詞に暗号としてメッセージを忍ばせたとしても何ら不思議はない。


序論で紹介したとおり、彼女自身は9.11テロのことや、アメリカから贈られた花水木に関する逸話との関連を述べている。


 しかし彼女が述べていることが真実であるのなら、なぜ誰もが理解できるような言葉でそれを書かなかったのだろうか。


 なぜこの詩について漠然としたことしか語らず、解りにくい個々の言葉の意味を説明しようとしないのだろうか。


さらに彼女は明らかにわざわざこの歌を聴く人が混乱するような書き方をしている。


 これは聴く人が自由にイメージを膨らませられるように、といった書き方ではない。むしろ逆にイメージを途切れさせ、戸惑わせ、感情移入を妨げさせるものだ。


 なぜ彼女はこのような書き方をしなければならなかったのだろうか。


 もし本当に彼女が自ら言っているようなメッセージを伝えたいと思っていたとするなら、このようなことはすべてマイナスにしかならない。


 実際、この詩の中に出てくるのは五月と八月だけであり、九月を連想させるものは何もない。


またアメリカから贈られた花水木について述べるなら、それが贈られるきっかけとなった日本から贈られた桜について何も語られていないというのも腑に落ちない。


 何とかそれらの視点からこの詩を読み解こうとしたが結局出来なかった。


 彼女のコメントは他の人にその本当の意味を悟られないためのカムフラージュだと私はみている。


それでも最後に一言だけこう本心を語っていた。


『「ハナミズキ」は自分の大切なひととその人の好きな人がせめて100年続けばいい、そういう願いを込めて創りました』


 そう、彼女は告白している。『自分の大切な人』の『好きな人』が自分ではないこと、その人を想ってこの曲を作ったことを。


ちなみに彼女は最近、離婚した不倫相手と結婚したことが報じられているが、その相手との関係はこの詩を書いた後からのもののようである。だとすればおそらくこの詩の中の相手とは別人であろう。


 ただ彼女に不倫の前科ならぬ"後科"があるというのは事実だ。
しかし、心地よいメロディーで美しい歌詞のヒットソングの中にかくも悲しく、暗いメッセージが込められているという結論に至ったのはやはりショックだった。


 私はもはやこの歌を口ずさむ気にはなれない。


 確かに優れた推理小説ではあったが、その結末は何とも哀しい、救いのないものだった、といったところだろうか。


 さて、あなたの導き出した解はどのようなものだっただろう。


 願わくは、もっと明るい、もっと希望の持てる解が発見されたことを期待している。